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一通り世界史の勉強を終えた浪人生を対象にゴロやまとめでライバルに差をつけられる知識を蓄えよう! という目的で管理人のやる気のある限り更新。
2006/12/25(Mon)13:43
No.10|世界史|Comment(0)|Trackback()
2006/12/25(Mon)13:36
ファーティマ朝とは、909年から1171年にかけて存在した王朝。
ファーティマとはムハンマドの娘の名前。
969年に首都カイロを建設した。
アッバース朝の衰退によって、過激シーア派のイスマーイール派が地元民ベルベル人の支持を受けて現在のチュニジア周辺に建国。
地中海からビザンツ帝国(東ローマ帝国)を圧迫した。
972年、アズハル大学を建設。さらにダール=アル=ヒクマと呼ばれるイスマーイール派の研究施設をアッバース朝のバイト=アル=ヒクマに対抗して建設。
その後ノルマン人の侵入によって衰退した。
No.9|世界史|Comment(0)|Trackback()
2006/12/25(Mon)13:31
後ウマイヤ朝は、756年から1031年まで続いた、コルドバを首都とした王朝。
ウマイヤ朝が滅ぼされ、イベリア半島に逃亡したウマイヤ家のアブド=アッラフマーン1世が建国。
第8代カリフのアブド=アッラフマーン3世の時に最盛期を迎える。
彼はファーティマ朝に対抗して、大アミール(軍の司令官・総督の意)に代わってカリフの称号を採用した。
イスラーム文明が反映し、特にトレドや首都のコルドバでは大きな繁栄を見せた。
その後内紛で衰退。イスラム系諸王朝が乱立して滅亡した。
No.8|世界史|Comment(0)|Trackback()
2006/12/25(Mon)13:24
アッバース朝は、750年から1258年まで続いた、バグダードを首都とした王朝である。
イラン東部のホラサーン地方で起こったウマイヤ朝打倒運動の中心人物であったアブー=アルアッバースが建てた。
彼はスンニ派だった。そのため、初め打倒運動に協力してくれたシーア派を、後に弾圧することとなる。
751年にはタラス河畔の戦いで唐軍に圧勝。このとき製紙法が西伝した。
第二代マンスールは、首都バグダードを建設し、アラブ人第一主義を廃止した。その内容として、アラブ人ムスリムにもハラージュを課し、マワーリーにはジズヤを廃止したことが挙げられる。
この時代にシーア派弾圧が本格的に始まり、特に過激派のイスマーイール派はその影響を大きく受けた。
官僚にはイラン人を採用した。
第五代ハールーン=アッラシードの時代がアッバース朝の最盛期。
第七代マームーンは、バイト=アル=ヒクマと呼ばれる施設をバグダードにつくり、そこでギリシア語文献の翻訳をさせた。これによってイスラーム文明は大きく進歩を遂げる。
トルコ人軍人奴隷のマムルークを採用すると、その横行が始まり、さらには946年にブライフ朝がバグダードに入場すると、アッバース朝の権力は事実上大きく失われた。
ついに1258年、フラグ率いるモンゴル軍がバグダードに侵入すると、そこで王家は殺され、アッバース朝は滅亡した。
No.7|世界史|Comment(0)|Trackback()
2006/12/25(Mon)13:10
ウマイヤ朝はアラブ人第一主義を採用し、特権はアラブ人が握っていた。
例えば、アラブ人ムスリムは、アターが支給され、税金は当初支払わなかった。
それに対して、非アラブ人ムスリム(マワーリー)は、ハラージュ(地租)を支払わなければならず、不満が相次いだ。
また、異教徒(ジンミー)には、ハラージュのほかにジズヤという人頭税も課せられた。
これによって、ジンミーは宗教・生命・財産・自治の自由が保障された。
統治において、ウマイヤ朝は、最盛期の第5代アブド=アルマリクのとき、公用語としてアラビア語が定められ、アラブ通貨が導入された。
No.6|世界史|Comment(0)|Trackback()