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世界史点取りブログ

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ウマイヤ朝の大まかな流れ

2006/12/22(Fri)00:45



ウマイヤ朝とは、661年から750年まで、ダマスクスを首都とした王朝のこと。

アラブ人第一主義であるのが特徴。
カリフは今まで選挙で選ばれていたが、ウマイヤ朝から世襲カリフ制となった。

661年、ムアーウィアがアリーの暗殺ののちに建てた。
ウマイヤ朝から、代々のカリフを正統と認める多数派のスンニ(スンナ)派と、アリーとその子孫のみしかカリフとして認めない少数派のシーア派の二大分派が誕生した。

ウマイヤ朝の時代、イスラム王朝として最大の版図を実現。
中央アジア・西北インドから、マグリブ地方(現チュニジア・モロッコ・アルジェリア)、イベリア半島にいたる広大な範囲を支配した。
ビザンツ帝国とも争ったが、第1次コンスタンティノープル包囲では、ギリシア火によって敗北。第2次コンスタンティノープル包囲では、レオン3世率いる軍隊によって撤退させられた。
フランク王国とも争い、ピレネー山脈を越えて、732年トゥール・ポワティエ間の戦いが起こった。カール=マルテル率いる軍隊に完敗。ヨーロッパ支配はならなかった。

この時期に、ヨーロッパとアジアの境界線が生まれたという説が多数である。


東ローマ帝国への攻撃失敗や、非アラブ人イスラム改宗者(マワーリー)や、シーア派の不満によって、ウマイヤ朝は次第に傾いていき、ついにアブー=アルアッバースによって滅ぼされた。


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